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佐藤紅緑、蓼科へ

佐藤愛子『血脈』中巻に、思いがけなく蓼科が出てきて、「へえー」でした。

1945年、若いころ佐藤紅緑の家に居候していた劇作家の真山青果から40年ぶりに連絡があり、
「前進座と一緒に蓼科へ行くが、もしご希望ならば前進座の座員に命じて空き別荘を探させましょう」。

当時、ふたりの娘はすでに嫁ぎ、紅緑は妻のシナとふたり、静岡県の興津にいましたが、米軍の空襲が激化し、疎開の必要が生じていたのでした。

6月23日、前進座の坂東調衛門、市川岩五郎が迎えに来て、あわただしく興津をあとにします。
朝、発って、夜9時過ぎ、茅野着。

翌日、湯川までバスで行き、湯川から馬で蓼科へ。
湯川というのはどの辺りか、ネットで見てみますと、いま、市営温泉「河童の湯」があるのが「茅野市北山湯川」とあります。

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「興津からの荷物が届かぬままに、紅緑とシナは山紫閣に逗留をつづけた。山紫閣は前進座が稽古場として使っており、真山青果の肝いりのおかげで戦時中ながら精いっぱいのもてなしが嬉しい」
山紫閣は、ネットで見てみますと、いまのホテル「滝の湯」とのこと。

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しかし7月に入ると、山紫閣は軍の療養所と決められ、客は否応なしに立ち退かねばならなくなります。

ちょうどそのとき、
「もう行くこともないので誰か借りたい人がいれば使ってもらいたいという別荘の持ち主がいて、そこは山の上で急坂の上り下りに難渋するという問題があったが、もう四の五の言っている場合ではなかった。布団は山紫閣から借り、当座の食糧や鍋釜などを前進座の厚意にすがって山上の家へ移った」

「別荘は縁側の広さが六尺あり、東南に八ヶ岳を望み、目の下に遠く牧場が広がるという眺望の家で…」

紅緑夫妻が暮らしたのは、いまのどの辺りだったのでしょう。

蓼科のいちばん古い、戦前からの別荘地というと、いまの「プール平」付近から始まったとのことですが。

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「7月というのに寒気が強くて、紅緑は冬のシャツを着込み、さらに綿入れの羽織を着て足袋をはいていた」

夫妻の蓼科滞在は、しかしすぐ終わりました――寒気のせいではなく、終戦で。

by sam0802 | 2020-12-11 15:49 | 蓼科だより  

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